「中国の人気ダンスインフルエンサーカップル「藤短短」が、山梨県のローソン河口湖駅前店の入り口で撮影したダンス動画を投稿したところ、日本のネット上で「迷惑行為」として非難が殺到した。2人は撮影時間が早朝で実質的な迷惑はかけていないと弁明したが、反発は収まらない。日本側の反応に失望を示し、2人は最終的に動画を削除した。
この件をきっかけに、日中ネット上では公共マナーと「自由」をめぐる論争が始まった。中国のネットユーザーの間では、「日本は過剰なルールに縛られた不自由な国」という見方が大半を占め、「政治批判の自由を除けば、中国のほうが日本よりもはるかに自由」という言説が広く支持を得た。言論の自由さえ保障されていない中国が日本よりはるかに自由だ、という主張には「自由」に対する深い誤解がある。日本人は長い間、「みんながルールを守ることが、誰もが安全で快適に暮らせる前提」というシステムへの信頼を培ってきた。「ルールがあるからこそ自由がある」状態、「自律すなわち自由」である。内面的な自律の成熟が経済発展のスピードに追い付いていない中国の人々には、これが理解できない。「自分がやりたいことを、やりたいからやる」のは、「自由」ではなく、「放任」「無秩序」にすぎない。
「政治批判の自由を除けば、中国のほうはるかに自由」という考え方も、視野狭窄だ。政治批判の自由は、全ての自由の土台である。経済や移動、信教、学問、知る権利、そして表現……これら全ての自由は、「政治批判の自由」という強固な盾に守られている。塾など民間教育産業への突然の規制令、アリババなど大手IT企業への巨額の罰金と締め付け、ゼロコロナ政策時の理不尽なロックダウン(都市封鎖)などは全て、政治批判の自由がないために引き起こされた。
中国の日常的な「活気」「ルールの緩さ」は魅力的に映るかもしれない。しかし、それは「政府が今たまたま黙認しているだけ」の自由にすぎない。言い換えれば、飼い主が機嫌よく放し飼いにしてくれているときの飼い犬の自由だ。自分の生活や人生を、自分の意思でコントロールする自由が存在しない中国は、本質的には「究極の不自由」な社会である」
ずっと日本にいて、そこから出て中国にいる私だが。まあ変人の私が言うことは普通の人とは違うかもしれない。私には日本のがんじがらめの社会は合わなかった。この作者は「自分の生活や人生を、自分の意思でコントロールする自由が存在しない」と言う。そして「政治批判の自由」が自由の基盤だとまで言う。偏見に満ちていると私には思える。しかし私はこれに反論することはしない。人は考えるのは自由だし、人がとやかく言うことではないからだ。
私は中国で自由に生きている。中国で暮らすにはいろんな制約がある。しかしそれを根気強く解決しても、ここで生きていくことは私には価値がある。それは私の「自由」のためだからだ。私のような「社会不適合者」には「ルールの緩さ」が必要だ。
私の哲学の楚となるヘルマン・ヘッセの「クヌルプ」は放浪の人生を選んだ。でもそれは孤独との戦いだ。孤独に耐えられる人でなければ本当の自由は得られないのだ。それは「精神的に人に依存しない自立」のことを意味する。私を変人と言わない日本は来るのだろうか?
コメントを残す